論評

Review

尾形純独自の抽象性と色彩の背後にある「禅」 大島 幸治氏
(思想史研究者)
博士(経済学)
幻視を仕掛ける作家、尾形純 大島 幸治氏
(評論家)
「尾形純」評論文 大島 幸治氏
(評論家)
尾形君の絵画に触れて感じたこと 吉田 昇氏
(アニメーション美術監督)
古の和色の襲色目の層から浮かび上がる、
尾形純の森羅万象の刹那の形
金原 由佳氏
(映画ジャーナリスト)
「地と図」を超えて、
あるいは尾形純の冒険について
本江 邦夫氏
(多摩美術大学教授)
深い余韻を残す霊妙な世界
~尾形純作品展に寄せて
三田 晴夫氏
(美術ジャーナリスト)
内在する輝き、
広がるイメージと知覚経験
赤津 侃氏
(美術評論家)
尾形純独自の抽象性と色彩の背後にある「禅」

ギャラリーで尾形純の墨と古和紙による作品展を見た。尾形純については何度か論じてきたが、初めて彼の水墨画作品をじっくり見た。そこで感じたのは、彼と「禅」との近親性である。私は、尾形作品を眺めながらオイゲン・ヘリゲルの「手記―禅の道」の一節を思い出していた。


ヘリゲルは言う。ヨーロッパ神秘主義においては、神秘的合一によって人間は世界内存在(being-in≒Dasein現存在)という境位を脱却するが、根本的に譲ることができない本来的な中心である自己は保持される。ところが禅においては人間存在そのものが「脱自分」的、「離心」的であり、禅者にとっては動物も植物も石も、地・水・火・風の四大も存在の中心を離れず、人間以外の一切の存在者が生きているのである。人間は、森や岩、花や実、風雨と嵐と一つにならねばならない…云々。尾形純の色彩は、自然界の対象と合一することで、その色彩が彼の方に染み出てきたような、感染したような印象を受ける。そこには、「自分はこう見る」という、「譲れない中心としての自己」の気配が希薄で、対象と一つになることで、その色彩や存在感を写し取ろうとする彼の姿勢が強く見えてくる。しかも、論理が複雑となる構造がその先にあって、彼が合一しようとする「自然」は、夾雑物が多く混在する生のままの自然ではなく、自然自身が「かくあるべし」と思っているエッセンスを現出させた日本庭園のそれのように思えるのだ。


禅では、日常生活の中の所作を厳しい作法によって制御し自己意識を厳しく律する。思考が取り留めもなく浮遊していくのをコントロールし、呼吸に集中することによって、むしろ心の中を「無」にしようとする。「思考」は本当の自分ではない。それは自己の経験や外側からインプットされた情報、常識などによって構成されるものでしかない。「思考」による心の中のおしゃべりが停止して、心が「無」となった時、本来の「自分」、梵我一如の自由な心の働きが現れるという。


「自己を無にして対象と彼我の区別ない合一に至る」ということを、鍛え上げ磨き上げた修練の手わざに没入して極限の集中状態に自らを置くことで、心の中の対話を停止させ、思考の騒音を排除することで尾形純は達成しようとする。極度の集中によって心の中の対話を停止させて、無私、無心の状態に保つというのは、きわめて禅の瞑想に似ている。半覚醒、睡眠状態に近い漫然とした呆然状態とは逆に、覚め切って冴えわたった精神状態で思考の彷徨を阻止し、無心、明鏡止水の心の状態を生み出しているからである。


作品の中には陶器を描いたものがあったが、彼の面白さは、ただ単にリアルに写し取ったのではないところだ。これは真に名品の形をしている。街の商店で3千円の値で売られている抹茶茶碗、高級デパートで30万円の値札がついてガラスケースに陳列されている茶碗、そして重要文化財として博物館に収蔵されている値段のつけようもない名品、それらがどのように形が違うものなのかを彼は学修したのだろう。私は、文化人として名高い白洲正子の骨董趣味の師匠、青山二郎が自ら発掘した井戸茶碗の名品を描いた作品を思い出した。絵としてはともかく、その形が実に良かった。尾形純が描いた陶器も感動を覚える形の良さである。しかもその作品群は、修練の手わざでサッという筆の一刷毛で描かれている。それでいて、「これは黒楽茶碗、それも楽家第三代、のんこう道入作だろうか」などと推測できるほどのリアリティーを持つ。楽焼の釉薬の表面は、丹波焼と思しき陶器の表面の質感と明瞭に描き分けられているから驚く。


このように尾形純は、実は、水墨画の手法でスーパーリアリズムというべき表現力を備えた作家なのである。それが、本作となる水彩やアクリルによる抽象画面の大作では、キャンバスの布地奥深く色素を塗り込んでいくことで画面の奥行きを作り出し、まったく破綻もなく精緻に仕上げた表面マチエールと計算し尽くされた構図とによって眩暈のような、画面前の空気を揺らめかせるような不思議な幻視を仕掛けるのだ。その作品だけ見ているなら、彼に「無心」という形容をつけるのは形容矛盾のように思えるだろう。しかし、実際には尾形純の抽象画は、スーパーリアリズムの表現から解像度を下げることがないまま、省略可能な要素を象徴的フォルムと空白に置き換えることで極限まで取り除き、水墨画らしい表現へと転換し、それをさらに深い色合いの100号もの水彩抽象画面へと転換させたものなのである。


彼の水墨画の前に立てば一目瞭然である。元々、手前の斜面を下った30メートル先にある禅寺の庭の池と石組みをスーパーリアリズムで写生したのだろう。そこから、池の周りの竹ひごによる囲いはいらない、芝生や周辺の草花もいらない、歩道となるべき敷石もいらないと省略していく。この景色の本質から言えば、これは枯山水の石組と置き換えてもいいだろう。画面の隅に描いてあった竹林も、象徴的な縦線一本で代替できる…このように省略していって画面に描かれたのは、残った3つの石組みと一本の縦線。しかし、ベースにあるのはスーパーリアリズムだから、この風景を写生した尾形の足元から立ちのぼる土の匂いと湿り気、竹林を吹き抜ける風の涼しさ、この斜面を下った先にある池と石組みを照らす日差しの強さ、空は晴れている…こうした情報のすべてが、作品の前に立って眺めていると私の頭の中を去来する。


また尾形の作品群に、盆栽を描いたものがある。水墨画となった画面は、ただ木の枝ぶりの一端が茫洋と描き出されているだけだが、牧谿の南画のように理想的に整えられた枝ぶりから、これは盆栽だろうと推測がつく。盆栽は、一鉢の中に、大自然の多くの要素と、その風景が出来上がるに至った物語までも象徴的に盛り込もうとするものである。だから、私の目の前にあるこの作品は、一枚の水墨画でありながら、それは宇宙を語らんとする多弁さを孕んでいるのだ。


このような水墨画を経て制作された尾形純の本作の抽象画の本質も、実は真逆のスーパーリアリズムに立脚している。だから、彼の抽象画面に封じ込められた情報のビット数は、一見単純化された構図に見えながら、とてつもなく凄いものとなる。その多弁さにしばし圧倒されてしまう。


しかし、もっと複雑な屈折を内包しているのは、彼独特の色彩なのである。


尾形純の水墨画が盆栽や禅寺の庭という、理想化されたあるべき自然とその精神性を写しだしたものであるように、彼が水彩の抽象画面で表出させる「色は、一瞬一瞬に自然が見せる夾雑物が雑じった生のままの姿、色合いではなく、まさにあるべき理想化された自然の色合いなのだと思う。彼は、対象と合一することで、その色合いを写し取る、いや自然の色彩に感染しようとする。しかし、彼が対面している「自然」は、仏教寺院などの庭園のそれであって、生のままの「自然」より夾雑物のない、純粋にエッセンスとなった理想形の「自然」の色合いなのである。現存在としての自然の対象物が、収束していくべき本質の色。抽象画面における彼の色彩の不思議な奥深さは、こうした論理の複雑さに由来するのだろう。


水墨画制作において、彼は、ありふれた日常の現象を写し取ることより、現象の背後にある本質、あるべき本来的な姿をこそ描き出そうとした。色彩においても、眼前のリアリティーをただ写し取るのではなく、その対象が本来あるべき理想的な「色」に迫ろうとする。自分を無にして対象と合一しようとすることで、世界内存在として立ち現われている事物の背後にある、揺るがず静止した「本質の色合いが描く作家自身に感染していく…そのような感じなのである。彼の作品に内包された静謐さはここから来るのだと思う。事物の本質が提示する、夾雑物を持たない純粋で理想化された色彩。これこそが尾形純の作品を唯一無二の独創的なものとしているのではあるまいか。


庭園の理想化された自然であれ、それは生きて春夏秋冬の生命体の鼓動を内包している。静態としての本質と、現存在(Dasein)としての生命が移ろっていく動態。そしてスーパーリアリズムから解析していった水墨画、そこから展開した水彩の抽象画の大作。複雑に矛盾を孕んだ尾形純の絵画表現を前にして、その都度、私は作品の論理をどう読み解こうかと立ち尽くす。展示を観終わって、大きな美術館を回ったほどの情報量に圧倒されたのだった。

大島 幸治(思想史研究者)
博士(経済学)
Kouji Oshima (History of ideas researcher)
Ph.D. (Economics)
幻視を仕掛ける作家、尾形純

銀座永井画廊で尾形純の作品展を見た。日本庭園の四季折々の色彩や空気感にインスパイアされた旨、カタログに記されているが、なるほど日本的な上品な色合い、見る者の記憶を刺激する色合いである。私は、亡き母の着物にこんな色があったなと思い出していた。彼は「四季折々の色彩」と表現していたが、一瞬の鮮烈な色彩の輝きをとらえたものではなく、四季を通じて繰り返される自然の営みの長い時間の経過も含めて、心のどこかに降り積んでいく色なのかもしれない。尾形純の柔らかく上品に静まり返った「色彩」が示している奥深さには、その前を立ち去れなくなる何かが潜んでいる。


この色の奥深さはどこから来るのだろう。キャンバスに勢い強く水平方向から塗り付けたとしても決して生まれない深さ。たとえ画布の表面に大量の絵の具を塗りつけ、厚く盛ってみたところでこのような深さは出てこない。何か、奥の方に行けばいくほど色素が沈着しており、その蓄積された色素がまるで画布の裏側に巨大な塊として存在していて、その存在感が奥の方から表面へと自己主張してくる…そのような「静かな迫力」をたたえているのである。天から降ってくる雪が、地面に落ち、融けて染み込み…やがて降り積もっていくような感じである。実際、尾形純は、真上から画布の奥に染み込ませるように描いたのかもしれないと思った。というのも、眺めていると空間の感覚がおかしくなってくるからだ。真横を向いているのに、真下を見降ろしているような気持になってくる。ふと、めまいがした。


そこで私の眼が釘付けとなったのは、一枚の大作が仕掛けてきた「幻視」だった。何気なく前に立って眺めていたら、ふわりと「陽炎」のような微かな空気の流れ、ゆらぎが見た。この作品は、絵の具で描かれた以上の情報を語りかけ、見る者の視覚認識に何かを仕掛けてくる。驚いた私は、近寄って画面のマチエールを凝視し、描きこまれた白いフォルムの筆さばきを観察し、「今のは気のせいかもしれない」と息を整えて、もう一度見直したのだった。


しかし、やはり作品と私との間の空間に風のようなものが流れる。目の前の空間は、空虚な真空ではなく、空気や気配といった濃厚な何者かが実在していると実感するのだ。データを見れば、この一枚は、1315mm×1945mmもの巨大なキャンバスにアクリルで描かれた「紫」をテーマとした力作、題名「雷流仮山」である。画面のほとんどを均一な紫色が占めるという大胆かつ挑戦的な構成。極端に抽象的な印象を受ける画面には、ただ右上と左下に何かのフォルムが配置されているだけだ。


この大きな画面を作品としてまとめるには、強烈な凝縮力が必要である。ここには、実在する対象の解像度を落としてその本質を析出しようというコンポジションとはまったく次元が異なる、強烈な論理と意図を持った構成力が塗り込められているのだと感じずにはいられない。


振り返って展示作品を見回すと、並べられた作品全体がキャンバスにアクリルという技法なのに、どこか日本画的な落ち着いた色彩で描かれ、狂暴で挑戦的な色彩で見る者を挑発するということがない。この画廊の空間が柔らかく気品ある色彩に満たされている。この大胆な構図を成立させている凝縮力はどこから来るのだろう。


「雷流仮山」を見直すと画面の紫にフワフワと陽炎が立ち上る。息を整えて画面の前に立つ。じっと見つめていると、やはり陽炎が立つ。


私の視線は、右上にあるフォルムに引き寄せられるが、同時に、左下の微かな影との間を素早く往復する。するとキャンバスのほとんどを占める紫色の画面の前の空気が動くような気がするのだ。なるほど私たちの視覚世界は脳の創りものにすぎないから、視覚機能の実験でよく使われる「ネオン色拡散」で描かれていない半透明な四角形が見えたり、両眼視覚闘争によって見える横縞縦縞の図像が数秒感覚で後退する知覚交代を経験したりする。これは脳科学ではよく知られていることだ。そうした仕掛けがなされているのだろうか。いやいや、そのような甘いものではない。


右上の白いフォルムは、近づいてみると下地の上に薄く乗せるようにして、しかもナイフで表面の反射が強く仕上げられている。しかし離れて見ると、下地の上に乗っているのではなく、むしろ塗り残し部分が自己主張しているかのように、下から浮き上がってくる強烈な印象なのだ。この描き方がこのフォルムの存在感と引力の強さなのだろうか。その引力が強い分、反対の左下の暗い影のようなフォルムが気になる。見る者は、尾形の仕掛けに導かれて視線の運動を強いられることになる。しかし、それは画面に表出した図像を静的に記号的解析することを拒絶する、なにか動態的な論理をはらんでいる。


もう一度子細に画面を見てみると鳥肌が立った。先ほど垂直に塗り込んでいったと見たマチエールは、気が遠くなるような丹念さで、わずかな破綻もなくビロードのような、しかし光を吸収する艶消しの状態に全体が仕上げられている。この大画面を精密かつ正確な筆捌きで埋め尽くすには、どれほどの労力を要したことだろう。この均一さが視線の動きを遮らないからこそ、視線の錯綜によって陽炎が立ち上るのである。言ってみれば尾形純の芸術家魂、情念が空気を揺らめかすのだ。


この空気の揺らめき感にさらされながら作品の前に立っていると、手前の空気の奥にある色彩がドーンと迫ってきた。おとなしく上品に思えた色彩が、突然、強烈な衝撃力をもって押し出してくる。これが「紫」の色合いが秘めていた本質なのか! 「紫」色が内に抱いていた衝撃波を伴った情念…なるほど、これは「雷流仮山」だ。かつてシューマンは、繊細で高雅なショパンの音楽を「花の陰に隠された大砲」と呼んだが、柔和で温厚な人柄の尾形純には、衝撃力をもった色彩の本質に感応する過激な感受性、大砲のような衝撃波を持った芸術家魂が秘められている。彼の抽象力は、絵具では描きようもない「色彩」の情念を現出させる。そのために空間認識を混乱させ、絵の前の空気を揺らめかせる。尾形本人が言っている「空気、そして重力、表面張力…」というのは、そういうことなのだろう。


画面上のフォルムから記憶を呼び覚ますような記号性とか象徴性を読み取るのは、もうやめよう。作家が導くまま虚心に視線を画面上に泳がしてみよう。これは何かのリアリティーを写し取ったものではないのだ。尾形が言う「空気感」、空気が流れるクオリア(質感)を現出させる表現、そして色彩が内に秘めている衝撃力を開示、顕現させようとする作品なのだ。静止した二次元の画面の仕掛けによって手前の見えない空気をゆらゆらと動かし、それによって色彩が持つ本質を引き出してみせようとは、なんとも凄まじい独創的アプローチに挑戦する作家がいたものである。

大島 幸治(評論家)
Kouji Oshima (Critic)
「尾形純」評論文

銀座永井画廊で、尾形純の作品展を見た。作家本人は、日本庭園の四季折々の色彩や空気感にインスパイアされた旨、カタログで語っていたが、私の眼が釘付けとなったのは、一枚の大作が仕掛けてきた「幻視」だった。なるほど尾形本人は「空気、そして重力、表面張力…」といった言葉をもどかしげに連ねているが、そうした言葉では言い表せない「陽炎」のような微かな空気の流れ、ゆらぎ…それをこの作品は仕掛けてくる。驚いた私は、近寄って画面のマチエールを凝視し、描きこまれた白いフォルムの筆さばきを観察し、そして息を整えてもう一度見直したのだった。


この一枚は、1315mm × 1945mmもの巨大なカンバスにアクリルで描かれた「紫」をテーマとした力作、題名「雷流仮山」である。画面のほとんどを均一な紫色が占めるという大胆な構成。極端に抽象的な印象を受ける画面に、右上と左下に何かのフォルムが配置されている。最初その前に立った時には、老練な抽象画家によるコンポジションなのかなとさえ思った。


振り返って展示作品を見回すと、並べられた作品全体がキャンバスにアクリルという技法なのに、どこか日本画的な落ち着いた色彩で描かれ、狂暴で挑戦的な色彩で見る者を挑発するということがない。「抽象画面なのにちょっとおとなしいなぁ」と思ってしまった。しかし、振り返って「雷流仮山」を見直すと画面の紫にフワフワと陽炎が立ち上ったのである。「えっ…」と驚いて、これは、外界のリアリティーの解像度を変えることで、その存在の本質や作家が見出した違和感を表現しようとする抽象絵画とは別次元の作品なのだと了解して見直した。


息を整えて画面の前に立つ。じっと見つめていると、やはり陽炎が立つ。私の視線は、右上にあるフォルムに引き寄せられるが、同時に、左下の微かな影とを素早く往復する。するとキャンバスのほとんどを占める紫色の画面の前の空気が動くような気がするのだ。


右上の白いフォルムは、近づいてみると下地の上に薄く乗せるようにして、しかもナイフで表面の反射が強く仕上げられている。しかし離れて見ると、下地の上に乗っているのではなく、むしろ塗り残し部分が自己主張しているかのように、下から浮き上がってくる印象なのだ。この描き方がこのフォルムの存在感と引力の強さなのだろう。その引力が強い分、反対の左下の暗い影のようなフォルムが気になる。見る者は、尾形の仕掛けに導かれて視線の運動を強いられることになる。


子細に画面を見てみると鳥肌が立った。そのマチエールは、気が遠くなるような丹念さで、わずかな破綻もなくビロードのような、しかし光を吸収する艶消しの状態に仕上げられている。この大画面を精密かつ正確な筆捌きで埋め尽くす作家の執念のようなものを感じて涙が出そうになった。この均一さが視線の動きを遮らないために、視線の錯綜によって陽炎が立ち上るのである。言ってみれば尾形純の情念が空気を揺らめかすのだ。


そうだ、画面上のフォルムから記憶を呼び覚ますような記号性とか象徴性を読み取るのをやめよう、作家が導くまま虚心に視線を画面上に泳がしてみよう。これは何かのリアリティーを写し取ったものではなく、まさしく尾形が言う「空気感」、空気の流れを現出させる表現なのだ。


私自身の好みから言えば、そもそも紫色の色合いにはうるさい。並べられた作品全般からして、なにか実際の日本庭園の画像解析率を低下させたような、背後にリアリティーがあるような色合いである。その分、こちらも冷静な距離感を保てた感じがする。もしこれが、もっと透明感がある、私好みの色彩で描かれていたとした、私の魂は画面に吸い込まれて、どうにかなってしまうのじゃないか。そら恐ろしい気がして背中に戦慄が走る。


静止した二次元の画面上で、ゆらゆらと空気を動かして見せようとは、なんとも不思議な抽象性に挑戦する作家がいたものである。

大島 幸治(評論家)
Kouji Oshima (Critic)
尾形君の絵画に触れて感じたこと

かつて見た記憶のある景色と今現在が混じり合うかのような不思議な感覚。視線は揺れ動いて、キャンバスの上の色彩や形をまさぐる…見る事の体験、絵との出会い。


尾形君の作品をはじめに離れたところから眺めてまず目に映るのは、単一に塗り込められた色の面とわずかに見られる形のようなものです。やがて作品に近付くにつれて、落ち着いた彩度の画面のそこここに不意に現れたかに感じられる「形のようなもの」が徐々に具体的な細部として見えてきて、そこに何か具象的なものが描写されているのか、又は抽象的なフォルムが描かれているのかわからないままに、曖昧な中間地帯に放り込まれます。それでもじっとその形や形の痕跡のようなものを見ていると、何か記憶をくすぐるような具体的な景色が浮かび上がってきたりするのですが、それも次には泡のように消え去ってしまいます。近寄ると、しっかりした筆の力でのせられた絵具の物質としての感触が見えてくるからです。そしてまた離れて見ると、先程見た細部の筆使いが色面に囲まれながらも静かに輝き、再び景色の像を結ぶかのように迫ってきます。


離れて見ることと近くで見ることの往復によって起こる変化のスリリングな体験を尾形君の作品はもたらします。それはもしかすると、絵を見ること、そしてそもそも、絵を描くこと、によって起こるはじめの出来事かも知れず、作品を制作する時、尾形君はいつもそれにそっと出会っているのではないでしょうか。

吉田 昇(アニメーション美術監督)
Noboru Yoshida (Animation Art Director)
古の和色の襲色目の層から浮かび上がる、尾形純の森羅万象の刹那の形

蒲葡(えびぞめ)、青碧(せいへき)、香染(こうぞめ)、紅紫(べにむらさき)、萱草色(かんぞういろ)……。日本には古来伝わる千百余色の伝統色があると言われるが、これらの和色について深く感じるようになったのは、尾形純の作品と出会ってからである。2008年の「和温の霊び」(DOKA Contemporary Arts)、2010 年の「禅の庭ZEN GARDEN」(Tobin Ohashi Gallery)、2012 年の「KAOMISE」(Nikei Fine Art)「利休庭園」(銀座三越8 階ギャラリー)とここ数年の彼の作品は、日本の自然に宿る森羅万象の美を懇々と呼び起こすものであり、私たちが日常の中で忘却しがちな和の色を再生するものである。


和色とは古来の人々が山々の木々や花の色を自らの装いとして身に着けるために苦心惨憺をし、探し当てた色であるが、尾形純の作品を覆う繊細な色彩もまた、彼の試行錯誤の末から生み出されるものなのである。


そしてその地の色に漂う幽玄な魂の形というべきもの。見る者によっては、それは風の形として目に映るかもしれないし、あるいはもっと哲学的なもの、小林秀雄が言う「美を求める心」の心象風景のようなものが立ち上がってくるかもしれない。ここ数年、日本の「禅」というものに引きつけられ、その精神を絵画の中で表現することに苦心している尾形の姿を想起するにすれ、個人的には臨済宗(禅宗)の歴代の高僧碩徳による遺誡偈頌(ゆいかいげじゅ)が現代芸術として転生したかのような印象を覚える。遺誡偈頌、略して遺偈(ゆいげ)とは禅僧たちが入滅に際して、後人のために自己の境涯を示した書であるが、末期(まつご)を飾るものだけにあって、そこには入魂としか言いようのない筆跡が生々しく残されている。その気迫と同じものが尾形純の作品には刻まれている、と言っていいのではないだろうか。もちろん、ひとつの作品を仕上げるごとに、肉体的に彼が死ぬわけではない。しかし、精神的にはまるで生と死を繰り返すかのような作業が続く。創作の過程で、その一筆になんらかの過誤が生じた場合、それまで丹精込めて作り上げた和色の地まで惜しげもなく破棄してしまう、ということを本人から聞いたことがあるが、然(さ)もありなん、彼のスタイルは地色の下に隠されたまた違う色を筆によってまるで削り取るかのような、もしくは掘り当てるような作業の末に生まれたもので、まさに一期一会。やり直しのきくものではなく、刹那を形にしたものなのである。


以前、その刹那を捉えた筆跡の美しさばかりに気をとらわれ、感想を述べたことがあるが、そのとき、尾形純から、「しかしやはり重要なのはその刹那を受け止める地を作る作業なのです」と聞いて深く感じ入ったことがあった。彼はもともと洋画の油絵からこの道に入り、20 代の頃は白と黒を基調とした抽象画を多く発表していた。東京芸術大学大学院美術研究科にて保存修復技術油画を終了し、1997~98 年には文化庁在外研修にてニューヨークに留学し、Rustin Levenson Art Conservation Associates にて現代絵画の技法研究ならびに保存技術の研究をしている。まさに油絵の技法を知り尽くしたうえで、逆に日本の精神をその技法と融合させ、新たなる境地を模索しているのだ。日本画は線の絵画であり、禅画の雪舟をはじめ、その線の力強さで画力を物語る作品が多いが、油絵から端を発した尾形純はその日本画の平面的な線の呪縛からはなから解き放たれている。それゆえに構築できる立体的な世界観の秘密は一見、単色に塗りつぶされたかのように見える和色のキャンバスにあり、それはレンブラントの地塗りと同じく有色地塗りで、白色の上に明色や、暗色の色材で作られている。表に見える色の下にはいくつもの和色が襲色目(かさねいろめ)の層となって隠れていて、そこに筆が入ることで、地の色と下の色とが融合し、水と溶け合って現れ出て、思っても見ない表情を覗かせるのである。


尾形純の作品と向き合うことは、現在の日本人の眼が見落としがちな、目に見えぬ自然の気配と向き合うこと。巧緻な自然の色と形を思い出すことである。ときの移ろいや、生あるものの変容をもそこには表されている。その和の豊かな色と溶け合いたい。

金原 由佳(映画ジャーナリスト)
Yuka Kimbara (Movie Journalist)
「地と図」を超えて、あるいは尾形純の冒険について

DOKA Contemporary Artsにおける尾形純の昨年の個展は「和温の霊び」と題され、その不可思議さによって良くも悪くも出品内容に影響をあたえている。ここで私があえて「悪くも」と言ったのは、見る者にそれがいたずらに「東洋」ないしアニミズムを連想させ、本来は自由で広大であるべき鑑賞の道を一本の隘路へと狭めかねないからである。ここまでの道具立てをしなくとも、尾形純の絵画はそれ自体で立派に成立している。個展リーフレットに掲載された三田晴夫の、じつに行きとどいた一文にある「みずからが精神を宿した存在もしくは世界となった絵画」という断定的な尾形評に私は何の異存もない。


問題は、尾形純の絵画を虚心に眺めたとき、その内なる一体何がその自律を規定しているかということ、あるいは(絵画の成立にある種の発展を想定するなら)彼の絵画のどこに新味があるかということである。これについて、私は「地と図」の観点から論じてみたい。


結論を先に言うと、尾形純の絵画には「地と図」の関係、つまり事物の再現性を放棄し、媒体(絵具等)の実在感に徹頭徹尾依存する抽象絵画がその最終的な段階に至ってなおも捨てきれないこの一種の原理にたいする、ほとんど冒険的と言ってもいい、独自の考察がある―少なくとも私にはそのように思われるのだ。


事物の「かたち」にかんする用語を整理すれば、凹凸とか歪みの実態に即した見方は shape (形状)、基本的な図形に還元するのは form (フォルム)、背景や周囲との関係で眺めた figure (形象)ということになるだろう。フォルムだけが外来語のようになっているのは、イメージなどと同じく、もともと日本語には無い(だから私たちを歪みを美としてとらえることができる)概念だからである。


尾形純の絵画の最大の特徴は、地と図の関係に安住すべき形象の、それを無視した、たとえば周縁から不意に画面つまり聖域に入り込んでくる不穏な立ち居振る舞いにある。ここで心霊術につきもののエクトプラズムを連想するのはそれほど見当違いとは言えない。モノクロームの虚空を定めがたき形象が浮遊する。とりわけそれが周縁を徘徊するとき、少なくとも西欧的な文脈においては、画面中央は一気に余白の「危機」に曝されるであろうが、本質的に融通無碍の東洋的な感性にとってはそんなことはたいした問題ではない。むしろ、危機が危機のままに宙吊りになっていることに快感すら覚えるだろう。これは見方を変えれば、この時点もしくは瞬間で、「地と図」の関係は視覚的には消滅するものの、概念としては存続するということだ。


モーリス・ルイスの横長の画面の両端にわずかに色を配することで、輝ける真空を現出せしめた、あのどこか不安に満ちた決断を、ここでふと思うのはおそらく私だけではあるまい。そこで画面が尽きてしまう、ぎりぎりのところでまた色面を広げていこうとするクリフォード・スティルの傍若無人ぶりも、むろん風土の違いはあるが、ここではむしろ自然な身振りのように思われる。要するに、尾形純もまた絵画の冒険者なのだ。

本江 邦夫(多摩美術大学教授)
Kunio Motoe (Professor of Tama Art University)
深い余韻を残す霊妙な世界~尾形純作品展に寄せて

21世紀に入った今でも、実在の対象を美的に描くという伝統的な描法が消えてなくなったわけではない。むしろ日常の生活世界に目をやれば、なおそうした規範に則った絵画に接する機会のほうが断然多いだろう。生活世界の装飾とは、そして、そのためにある絵画とは、何よりも人々の内面をかき乱すことのない安心感を求められるものだからである。にもかかわらず、芸術表現としての絵画においては、もはや過去の美的規範を墨守しなければならない理由はどこにもない。ドイツの文学者ハンス・ヘニー・ヤーンが慨嘆したように、文明化の矛盾や世界大戦の不条理な悲劇をくぐり抜けた目と精神は、どんなに優美に見える対象も、「実体は虚無のような黒」であり、「引力に穿たれた孔、姿なき存在」であるとしか感受し得なくなったのだから。かくして絵画は、平面性と正面性という昔ながらの構造を受け継ぎつつも、現実世界を映す鏡ではなくなっていく。


このように現実の何ものも写さず、現実の何ものにも拘泥しない絵画とは、言い換えれば、みずからが精神を宿した存在もしくは世界となった絵画であるとも言い換えられよう。尾形純が一貫して描いてきたのは、まさにそのような絵画である。ぬばたまの深い闇を思わせる黒、反対に午後ののどけき光のような黄、うっそうたる自然に包み込まれた感覚を催させるグリーンといったさまざまの単一の色彩が広がった空間と、偶然ついた染みやしたたった水滴の跡とも、揺らめく炎とも、水中を浮遊する微生物とも、はたまた身をよじった人体ともつかないそこに出没するさまざまの名指しがたいイメージ。尾形の画面を成り立たせているのは、そのたった二つの要素だけなのだ。いうまでもなく静まり返って微動だにしない空間は<地>をなし、何かの形も結ぶことなく、ひたすら溶け流れているようなイメージは図をなす。


しかし、それを眺めていると、やがて見る者は、地と図でシンプルに設計された画面の奥底からじわじわと染み出してくる、深い余韻に満ちた気配を感じてやまないだろう。この個展に付された聞き慣れない響きを持つタイトル「和温の霊(くし)び」とは、こちらが勝手に解釈すれば、和は調和の和、温は温故知新の温、霊(くし)びとは神妙かつ不思議なことだから、地と図の調和的探究によって導かれた霊妙な世界というような意味となろうか。もちろん和を和風の和、温を温帯の温と解しても、尾形絵画の特質を表していることにさしたる変わりはあるまい。西洋画の脂ぎった物質感や厳格極まる構築性とは異質な、夢とも現(うつつ)ともつかない東洋画の深遠さにも通じていることに。それはたとえば、「静かなる暁ごとに見渡せばまだ深き夜の夢ぞ悲しき」(式子内親王)という古歌の美意識さえ思い出させる。

三田 晴夫(さんだ・はるお)(美術ジャーナリスト)
Haruo Sanda (Art Jounalist)
内在する輝き、広がるイメージと知覚経験

尾形純の最新作が放射する、柔らかい感性から生まれる色彩の輝きを堪能する。視線は平面に吸い込まれ、拡大し開放感と浮遊感を体験する。視線は何度も往還し、強烈で濃密な揺らぎと生気を得る。尾形の感性の志向性は、平面の深層に内在する色彩の輝きにある。深く学んだ古典技法に裏打ちされた色彩世界は、表層と中層から同時に浮かび上がる。色彩のイメージが自発性を一層強めてきた。表現の鮮度を保ち続ける確かな手わざが、増殖するイメージを生成し、空間を無限に押し広げてゆく。少しずつ明確になりはじめた浮遊する形象は、無類の生動感を与え、観る者の神経の弦をぐいぐいと引き締めてゆく。尾形純は、今回の個展で進展し、深化した。絵画の吸引力は確実に増し、重層的な色彩のイメージを、決定的な相へと昇華させた。それは日常的な視覚の記憶を超常的な知覚経験へと発展させた。

赤津 侃(美術評論家)
Tadashi Akatsu (Art Critic)