「尾形純」評論・推薦文

尾形純独自の抽象性と色彩の背後にある「禅」

ギャラリーで尾形純の墨と古和紙による作品展を見た。尾形純については何度か論じてきたが、初めて彼の水墨画作品をじっくり見た。そこで感じたのは、彼と「禅」との近親性である。私は、尾形作品を眺めながらオイゲン・ヘリゲルの「手記―禅の道」の一節を思い出していた。

ヘリゲルは言う。ヨーロッパ神秘主義においては、神秘的合一によって人間は世界内存在(being-in≒Dasein現存在)という境位を脱却するが、根本的に譲ることができない本来的な中心である自己は保持される。ところが禅においては人間存在そのものが「脱自分」的、「離心」的であり、禅者にとっては動物も植物も石も、地・水・火・風の四大も存在の中心を離れず、人間以外の一切の存在者が生きているのである。人間は、森や岩、花や実、風雨と嵐と一つにならねばならない…云々。尾形純の色彩は、自然界の対象と合一することで、その色彩が彼の方に染み出てきたような、感染したような印象を受ける。そこには、「自分はこう見る」という、「譲れない中心としての自己」の気配が希薄で、対象と一つになることで、その色彩や存在感を写し取ろうとする彼の姿勢が強く見えてくる。しかも、論理が複雑となる構造がその先にあって、彼が合一しようとする「自然」は、夾雑物が多く混在する生のままの自然ではなく、自然自身が「かくあるべし」と思っているエッセンスを現出させた日本庭園のそれのように思えるのだ。

禅では、日常生活の中の所作を厳しい作法によって制御し自己意識を厳しく律する。思考が取り留めもなく浮遊していくのをコントロールし、呼吸に集中することによって、むしろ心の中を「無」にしようとする。「思考」は本当の自分ではない。それは自己の経験や外側からインプットされた情報、常識などによって構成されるものでしかない。「思考」による心の中のおしゃべりが停止して、心が「無」となった時、本来の「自分」、梵我一如の自由な心の働きが現れるという。

「自己を無にして対象と彼我の区別ない合一に至る」ということを、鍛え上げ磨き上げた修練の手わざに没入して極限の集中状態に自らを置くことで、心の中の対話を停止させ、思考の騒音を排除することで尾形純は達成しようとする。極度の集中によって心の中の対話を停止させて、無私、無心の状態に保つというのは、きわめて禅の瞑想に似ている。半覚醒、睡眠状態に近い漫然とした呆然状態とは逆に、覚め切って冴えわたった精神状態で思考の彷徨を阻止し、無心、明鏡止水の心の状態を生み出しているからである。

作品の中には陶器を描いたものがあったが、彼の面白さは、ただ単にリアルに写し取ったのではないところだ。これは真に名品の形をしている。街の商店で3千円の値で売られている抹茶茶碗、高級デパートで30万円の値札がついてガラスケースに陳列されている茶碗、そして重要文化財として博物館に収蔵されている値段のつけようもない名品、それらがどのように形が違うものなのかを彼は学修したのだろう。私は、文化人として名高い白洲正子の骨董趣味の師匠、青山二郎が自ら発掘した井戸茶碗の名品を描いた作品を思い出した。絵としてはともかく、その形が実に良かった。尾形純が描いた陶器も感動を覚える形の良さである。しかもその作品群は、修練の手わざでサッという筆の一刷毛で描かれている。それでいて、「これは黒楽茶碗、それも楽家第三代、のんこう道入作だろうか」などと推測できるほどのリアリティーを持つ。楽焼の釉薬の表面は、丹波焼と思しき陶器の表面の質感と明瞭に描き分けられているから驚く。

このように尾形純は、実は、水墨画の手法でスーパーリアリズムというべき表現力を備えた作家なのである。それが、本作となる水彩やアクリルによる抽象画面の大作では、キャンバスの布地奥深く色素を塗り込んでいくことで画面の奥行きを作り出し、まったく破綻もなく精緻に仕上げた表面マチエールと計算し尽くされた構図とによって眩暈のような、画面前の空気を揺らめかせるような不思議な幻視を仕掛けるのだ。その作品だけ見ているなら、彼に「無心」という形容をつけるのは形容矛盾のように思えるだろう。しかし、実際には尾形純の抽象画は、スーパーリアリズムの表現から解像度を下げることがないまま、省略可能な要素を象徴的フォルムと空白に置き換えることで極限まで取り除き、水墨画らしい表現へと転換し、それをさらに深い色合いの100号もの水彩抽象画面へと転換させたものなのである。

彼の水墨画の前に立てば一目瞭然である。元々、手前の斜面を下った30メートル先にある禅寺の庭の池と石組みをスーパーリアリズムで写生したのだろう。そこから、池の周りの竹ひごによる囲いはいらない、芝生や周辺の草花もいらない、歩道となるべき敷石もいらないと省略していく。この景色の本質から言えば、これは枯山水の石組と置き換えてもいいだろう。画面の隅に描いてあった竹林も、象徴的な縦線一本で代替できる…このように省略していって画面に描かれたのは、残った3つの石組みと一本の縦線。しかし、ベースにあるのはスーパーリアリズムだから、この風景を写生した尾形の足元から立ちのぼる土の匂いと湿り気、竹林を吹き抜ける風の涼しさ、この斜面を下った先にある池と石組みを照らす日差しの強さ、空は晴れている…こうした情報のすべてが、作品の前に立って眺めていると私の頭の中を去来する。

また尾形の作品群に、盆栽を描いたものがある。水墨画となった画面は、ただ木の枝ぶりの一端が茫洋と描き出されているだけだが、牧谿の南画のように理想的に整えられた枝ぶりから、これは盆栽だろうと推測がつく。盆栽は、一鉢の中に、大自然の多くの要素と、その風景が出来上がるに至った物語までも象徴的に盛り込もうとするものである。だから、私の目の前にあるこの作品は、一枚の水墨画でありながら、それは宇宙を語らんとする多弁さを孕んでいるのだ。

このような水墨画を経て制作された尾形純の本作の抽象画の本質も、実は真逆のスーパーリアリズムに立脚している。だから、彼の抽象画面に封じ込められた情報のビット数は、一見単純化された構図に見えながら、とてつもなく凄いものとなる。その多弁さにしばし圧倒されてしまう。

しかし、もっと複雑な屈折を内包しているのは、彼独特の色彩なのである。

尾形純の水墨画が盆栽や禅寺の庭という、理想化されたあるべき自然とその精神性を写しだしたものであるように、彼が水彩の抽象画面で表出させる「色は、一瞬一瞬に自然が見せる夾雑物が雑じった生のままの姿、色合いではなく、まさにあるべき理想化された自然の色合いなのだと思う。彼は、対象と合一することで、その色合いを写し取る、いや自然の色彩に感染しようとする。しかし、彼が対面している「自然」は、仏教寺院などの庭園のそれであって、生のままの「自然」より夾雑物のない、純粋にエッセンスとなった理想形の「自然」の色合いなのである。現存在としての自然の対象物が、収束していくべき本質の色。抽象画面における彼の色彩の不思議な奥深さは、こうした論理の複雑さに由来するのだろう。

水墨画制作において、彼は、ありふれた日常の現象を写し取ることより、現象の背後にある本質、あるべき本来的な姿をこそ描き出そうとした。色彩においても、眼前のリアリティーをただ写し取るのではなく、その対象が本来あるべき理想的な「色」に迫ろうとする。自分を無にして対象と合一しようとすることで、世界内存在として立ち現われている事物の背後にある、揺るがず静止した「本質の色合いが描く作家自身に感染していく…そのような感じなのである。彼の作品に内包された静謐さはここから来るのだと思う。事物の本質が提示する、夾雑物を持たない純粋で理想化された色彩。これこそが尾形純の作品を唯一無二の独創的なものとしているのではあるまいか。

庭園の理想化された自然であれ、それは生きて春夏秋冬の生命体の鼓動を内包している。静態としての本質と、現存在(Dasein)としての生命が移ろっていく動態。そしてスーパーリアリズムから解析していった水墨画、そこから展開した水彩の抽象画の大作。複雑に矛盾を孕んだ尾形純の絵画表現を前にして、その都度、私は作品の論理をどう読み解こうかと立ち尽くす。展示を観終わって、大きな美術館を回ったほどの情報量に圧倒されたのだった。

大島 幸治(思想史研究者)
博士(経済学)
Kouji Oshima (History of ideas researcher)
Ph.D. (Economics)

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