幻視を仕掛ける作家、尾形純
銀座永井画廊で尾形純の作品展を見た。日本庭園の四季折々の色彩や空気感にインスパイアされた旨、カタログに記されているが、なるほど日本的な上品な色合い、見る者の記憶を刺激する色合いである。私は、亡き母の着物にこんな色があったなと思い出していた。彼は「四季折々の色彩」と表現していたが、一瞬の鮮烈な色彩の輝きをとらえたものではなく、四季を通じて繰り返される自然の営みの長い時間の経過も含めて、心のどこかに降り積んでいく色なのかもしれない。尾形純の柔らかく上品に静まり返った「色彩」が示している奥深さには、その前を立ち去れなくなる何かが潜んでいる。
この色の奥深さはどこから来るのだろう。キャンバスに勢い強く水平方向から塗り付けたとしても決して生まれない深さ。たとえ画布の表面に大量の絵の具を塗りつけ、厚く盛ってみたところでこのような深さは出てこない。何か、奥の方に行けばいくほど色素が沈着しており、その蓄積された色素がまるで画布の裏側に巨大な塊として存在していて、その存在感が奥の方から表面へと自己主張してくる…そのような「静かな迫力」をたたえているのである。天から降ってくる雪が、地面に落ち、融けて染み込み…やがて降り積もっていくような感じである。実際、尾形純は、真上から画布の奥に染み込ませるように描いたのかもしれないと思った。というのも、眺めていると空間の感覚がおかしくなってくるからだ。真横を向いているのに、真下を見降ろしているような気持になってくる。ふと、めまいがした。
そこで私の眼が釘付けとなったのは、一枚の大作が仕掛けてきた「幻視」だった。何気なく前に立って眺めていたら、ふわりと「陽炎」のような微かな空気の流れ、ゆらぎが見た。この作品は、絵の具で描かれた以上の情報を語りかけ、見る者の視覚認識に何かを仕掛けてくる。驚いた私は、近寄って画面のマチエールを凝視し、描きこまれた白いフォルムの筆さばきを観察し、「今のは気のせいかもしれない」と息を整えて、もう一度見直したのだった。

しかし、やはり作品と私との間の空間に風のようなものが流れる。目の前の空間は、空虚な真空ではなく、空気や気配といった濃厚な何者かが実在していると実感するのだ。データを見れば、この一枚は、1315mm×1945mmもの巨大なキャンバスにアクリルで描かれた「紫」をテーマとした力作、題名「雷流仮山」である。画面のほとんどを均一な紫色が占めるという大胆かつ挑戦的な構成。極端に抽象的な印象を受ける画面には、ただ右上と左下に何かのフォルムが配置されているだけだ。
この大きな画面を作品としてまとめるには、強烈な凝縮力が必要である。ここには、実在する対象の解像度を落としてその本質を析出しようというコンポジションとはまったく次元が異なる、強烈な論理と意図を持った構成力が塗り込められているのだと感じずにはいられない。
振り返って展示作品を見回すと、並べられた作品全体がキャンバスにアクリルという技法なのに、どこか日本画的な落ち着いた色彩で描かれ、狂暴で挑戦的な色彩で見る者を挑発するということがない。この画廊の空間が柔らかく気品ある色彩に満たされている。この大胆な構図を成立させている凝縮力はどこから来るのだろう。
「雷流仮山」を見直すと画面の紫にフワフワと陽炎が立ち上る。息を整えて画面の前に立つ。じっと見つめていると、やはり陽炎が立つ。
私の視線は、右上にあるフォルムに引き寄せられるが、同時に、左下の微かな影との間を素早く往復する。するとキャンバスのほとんどを占める紫色の画面の前の空気が動くような気がするのだ。なるほど私たちの視覚世界は脳の創りものにすぎないから、視覚機能の実験でよく使われる「ネオン色拡散」で描かれていない半透明な四角形が見えたり、両眼視覚闘争によって見える横縞縦縞の図像が数秒感覚で後退する知覚交代を経験したりする。これは脳科学ではよく知られていることだ。そうした仕掛けがなされているのだろうか。いやいや、そのような甘いものではない。
右上の白いフォルムは、近づいてみると下地の上に薄く乗せるようにして、しかもナイフで表面の反射が強く仕上げられている。しかし離れて見ると、下地の上に乗っているのではなく、むしろ塗り残し部分が自己主張しているかのように、下から浮き上がってくる強烈な印象なのだ。この描き方がこのフォルムの存在感と引力の強さなのだろうか。その引力が強い分、反対の左下の暗い影のようなフォルムが気になる。見る者は、尾形の仕掛けに導かれて視線の運動を強いられることになる。しかし、それは画面に表出した図像を静的に記号的解析することを拒絶する、なにか動態的な論理をはらんでいる。
もう一度子細に画面を見てみると鳥肌が立った。先ほど垂直に塗り込んでいったと見たマチエールは、気が遠くなるような丹念さで、わずかな破綻もなくビロードのような、しかし光を吸収する艶消しの状態に全体が仕上げられている。この大画面を精密かつ正確な筆捌きで埋め尽くすには、どれほどの労力を要したことだろう。この均一さが視線の動きを遮らないからこそ、視線の錯綜によって陽炎が立ち上るのである。言ってみれば尾形純の芸術家魂、情念が空気を揺らめかすのだ。
この空気の揺らめき感にさらされながら作品の前に立っていると、手前の空気の奥にある色彩がドーンと迫ってきた。おとなしく上品に思えた色彩が、突然、強烈な衝撃力をもって押し出してくる。これが「紫」の色合いが秘めていた本質なのか! 「紫」色が内に抱いていた衝撃波を伴った情念…なるほど、これは「雷流仮山」だ。かつてシューマンは、繊細で高雅なショパンの音楽を「花の陰に隠された大砲」と呼んだが、柔和で温厚な人柄の尾形純には、衝撃力をもった色彩の本質に感応する過激な感受性、大砲のような衝撃波を持った芸術家魂が秘められている。彼の抽象力は、絵具では描きようもない「色彩」の情念を現出させる。そのために空間認識を混乱させ、絵の前の空気を揺らめかせる。尾形本人が言っている「空気、そして重力、表面張力…」というのは、そういうことなのだろう。
画面上のフォルムから記憶を呼び覚ますような記号性とか象徴性を読み取るのは、もうやめよう。作家が導くまま虚心に視線を画面上に泳がしてみよう。これは何かのリアリティーを写し取ったものではないのだ。尾形が言う「空気感」、空気が流れるクオリア(質感)を現出させる表現、そして色彩が内に秘めている衝撃力を開示、顕現させようとする作品なのだ。静止した二次元の画面の仕掛けによって手前の見えない空気をゆらゆらと動かし、それによって色彩が持つ本質を引き出してみせようとは、なんとも凄まじい独創的アプローチに挑戦する作家がいたものである。
大島 幸治(評論家)
Kouji Oshima (Critic)