深い余韻を残す霊妙な世界~尾形純作品展に寄せて

21世紀に入った今でも、実在の対象を美的に描くという伝統的な描法が消えてなくなったわけではない。むしろ日常の生活世界に目をやれば、なおそうした規範に則った絵画に接する機会のほうが断然多いだろう。生活世界の装飾とは、そして、そのためにある絵画とは、何よりも人々の内面をかき乱すことのない安心感を求められるものだからである。にもかかわらず、芸術表現としての絵画においては、もはや過去の美的規範を墨守しなければならない理由はどこにもない。ドイツの文学者ハンス・ヘニー・ヤーンが慨嘆したように、文明化の矛盾や世界大戦の不条理な悲劇をくぐり抜けた目と精神は、どんなに優美に見える対象も、「実体は虚無のような黒」であり、「引力に穿たれた孔、姿なき存在」であるとしか感受し得なくなったのだから。かくして絵画は、平面性と正面性という昔ながらの構造を受け継ぎつつも、現実世界を映す鏡ではなくなっていく。

このように現実の何ものも写さず、現実の何ものにも拘泥しない絵画とは、言い換えれば、みずからが精神を宿した存在もしくは世界となった絵画であるとも言い換えられよう。尾形純が一貫して描いてきたのは、まさにそのような絵画である。ぬばたまの深い闇を思わせる黒、反対に午後ののどけき光のような黄、うっそうたる自然に包み込まれた感覚を催させるグリーンといったさまざまの単一の色彩が広がった空間と、偶然ついた染みやしたたった水滴の跡とも、揺らめく炎とも、水中を浮遊する微生物とも、はたまた身をよじった人体ともつかないそこに出没するさまざまの名指しがたいイメージ。尾形の画面を成り立たせているのは、そのたった二つの要素だけなのだ。いうまでもなく静まり返って微動だにしない空間は<地>をなし、何かの形も結ぶことなく、ひたすら溶け流れているようなイメージは図をなす。

しかし、それを眺めていると、やがて見る者は、地と図でシンプルに設計された画面の奥底からじわじわと染み出してくる、深い余韻に満ちた気配を感じてやまないだろう。この個展に付された聞き慣れない響きを持つタイトル「和温の霊(くし)び」とは、こちらが勝手に解釈すれば、和は調和の和、温は温故知新の温、霊(くし)びとは神妙かつ不思議なことだから、地と図の調和的探究によって導かれた霊妙な世界というような意味となろうか。もちろん和を和風の和、温を温帯の温と解しても、尾形絵画の特質を表していることにさしたる変わりはあるまい。西洋画の脂ぎった物質感や厳格極まる構築性とは異質な、夢とも現(うつつ)ともつかない東洋画の深遠さにも通じていることに。それはたとえば、「静かなる暁ごとに見渡せばまだ深き夜の夢ぞ悲しき」(式子内親王)という古歌の美意識さえ思い出させる。

三田 晴夫(さんだ・はるお)(美術ジャーナリスト)
Haruo Sanda (Art Jounalist)

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