論評

Review

尾形君の絵画に触れて感じたこと 吉田 昇氏
(アニメーション美術監督)
古の和色の襲色目の層から浮かび上がる、
尾形純の森羅万象の刹那の形
金原 由佳氏
(映画ジャーナリスト)
「地と図」を超えて、
あるいは尾形純の冒険について
本江 邦夫氏
(多摩美術大学教授)
深い余韻を残す霊妙な世界
~尾形純作品展に寄せて
三田 晴夫氏
(美術ジャーナリスト)
内在する輝き、
広がるイメージと知覚経験
赤津 侃氏
(美術評論家)
尾形君の絵画に触れて感じたこと

かつて見た記憶のある景色と今現在が混じり合うかのような不思議な感覚。視線は揺れ動いて、キャンバスの上の色彩や形をまさぐる…見る事の体験、絵との出会い。


尾形君の作品をはじめに離れたところから眺めてまず目に映るのは、単一に塗り込められた色の面とわずかに見られる形のようなものです。やがて作品に近付くにつれて、落ち着いた彩度の画面のそこここに不意に現れたかに感じられる「形のようなもの」が徐々に具体的な細部として見えてきて、そこに何か具象的なものが描写されているのか、又は抽象的なフォルムが描かれているのかわからないままに、曖昧な中間地帯に放り込まれます。それでもじっとその形や形の痕跡のようなものを見ていると、何か記憶をくすぐるような具体的な景色が浮かび上がってきたりするのですが、それも次には泡のように消え去ってしまいます。近寄ると、しっかりした筆の力でのせられた絵具の物質としての感触が見えてくるからです。そしてまた離れて見ると、先程見た細部の筆使いが色面に囲まれながらも静かに輝き、再び景色の像を結ぶかのように迫ってきます。


離れて見ることと近くで見ることの往復によって起こる変化のスリリングな体験を尾形君の作品はもたらします。それはもしかすると、絵を見ること、そしてそもそも、絵を描くこと、によって起こるはじめの出来事かも知れず、作品を制作する時、尾形君はいつもそれにそっと出会っているのではないでしょうか。

吉田 昇(アニメーション美術監督)
Noboru Yoshida (Animation Art Director)
古の和色の襲色目の層から浮かび上がる、尾形純の森羅万象の刹那の形

蒲葡(えびぞめ)、青碧(せいへき)、香染(こうぞめ)、紅紫(べにむらさき)、萱草色(かんぞういろ)……。日本には古来伝わる千百余色の伝統色があると言われるが、これらの和色について深く感じるようになったのは、尾形純の作品と出会ってからである。2008年の「和温の霊び」(DOKA Contemporary Arts)、2010 年の「禅の庭ZEN GARDEN」(Tobin Ohashi Gallery)、2012 年の「KAOMISE」(Nikei Fine Art)「利休庭園」(銀座三越8 階ギャラリー)とここ数年の彼の作品は、日本の自然に宿る森羅万象の美を懇々と呼び起こすものであり、私たちが日常の中で忘却しがちな和の色を再生するものである。


和色とは古来の人々が山々の木々や花の色を自らの装いとして身に着けるために苦心惨憺をし、探し当てた色であるが、尾形純の作品を覆う繊細な色彩もまた、彼の試行錯誤の末から生み出されるものなのである。


そしてその地の色に漂う幽玄な魂の形というべきもの。見る者によっては、それは風の形として目に映るかもしれないし、あるいはもっと哲学的なもの、小林秀雄が言う「美を求める心」の心象風景のようなものが立ち上がってくるかもしれない。ここ数年、日本の「禅」というものに引きつけられ、その精神を絵画の中で表現することに苦心している尾形の姿を想起するにすれ、個人的には臨済宗(禅宗)の歴代の高僧碩徳による遺誡偈頌(ゆいかいげじゅ)が現代芸術として転生したかのような印象を覚える。遺誡偈頌、略して遺偈(ゆいげ)とは禅僧たちが入滅に際して、後人のために自己の境涯を示した書であるが、末期(まつご)を飾るものだけにあって、そこには入魂としか言いようのない筆跡が生々しく残されている。その気迫と同じものが尾形純の作品には刻まれている、と言っていいのではないだろうか。もちろん、ひとつの作品を仕上げるごとに、肉体的に彼が死ぬわけではない。しかし、精神的にはまるで生と死を繰り返すかのような作業が続く。創作の過程で、その一筆になんらかの過誤が生じた場合、それまで丹精込めて作り上げた和色の地まで惜しげもなく破棄してしまう、ということを本人から聞いたことがあるが、然(さ)もありなん、彼のスタイルは地色の下に隠されたまた違う色を筆によってまるで削り取るかのような、もしくは掘り当てるような作業の末に生まれたもので、まさに一期一会。やり直しのきくものではなく、刹那を形にしたものなのである。


以前、その刹那を捉えた筆跡の美しさばかりに気をとらわれ、感想を述べたことがあるが、そのとき、尾形純から、「しかしやはり重要なのはその刹那を受け止める地を作る作業なのです」と聞いて深く感じ入ったことがあった。彼はもともと洋画の油絵からこの道に入り、20 代の頃は白と黒を基調とした抽象画を多く発表していた。東京芸術大学大学院美術研究科にて保存修復技術油画を終了し、1997~98 年には文化庁在外研修にてニューヨークに留学し、Rustin Levenson Art Conservation Associates にて現代絵画の技法研究ならびに保存技術の研究をしている。まさに油絵の技法を知り尽くしたうえで、逆に日本の精神をその技法と融合させ、新たなる境地を模索しているのだ。日本画は線の絵画であり、禅画の雪舟をはじめ、その線の力強さで画力を物語る作品が多いが、油絵から端を発した尾形純はその日本画の平面的な線の呪縛からはなから解き放たれている。それゆえに構築できる立体的な世界観の秘密は一見、単色に塗りつぶされたかのように見える和色のキャンバスにあり、それはレンブラントの地塗りと同じく有色地塗りで、白色の上に明色や、暗色の色材で作られている。表に見える色の下にはいくつもの和色が襲色目(かさねいろめ)の層となって隠れていて、そこに筆が入ることで、地の色と下の色とが融合し、水と溶け合って現れ出て、思っても見ない表情を覗かせるのである。


尾形純の作品と向き合うことは、現在の日本人の眼が見落としがちな、目に見えぬ自然の気配と向き合うこと。巧緻な自然の色と形を思い出すことである。ときの移ろいや、生あるものの変容をもそこには表されている。その和の豊かな色と溶け合いたい。

金原 由佳(映画ジャーナリスト)
Yuka Kimbara (Movie Journalist)
「地と図」を超えて、あるいは尾形純の冒険について

DOKA Contemporary Artsにおける尾形純の昨年の個展は「和温の霊び」と題され、その不可思議さによって良くも悪くも出品内容に影響をあたえている。ここで私があえて「悪くも」と言ったのは、見る者にそれがいたずらに「東洋」ないしアニミズムを連想させ、本来は自由で広大であるべき鑑賞の道を一本の隘路へと狭めかねないからである。ここまでの道具立てをしなくとも、尾形純の絵画はそれ自体で立派に成立している。個展リーフレットに掲載された三田晴夫の、じつに行きとどいた一文にある「みずからが精神を宿した存在もしくは世界となった絵画」という断定的な尾形評に私は何の異存もない。


問題は、尾形純の絵画を虚心に眺めたとき、その内なる一体何がその自律を規定しているかということ、あるいは(絵画の成立にある種の発展を想定するなら)彼の絵画のどこに新味があるかということである。これについて、私は「地と図」の観点から論じてみたい。


結論を先に言うと、尾形純の絵画には「地と図」の関係、つまり事物の再現性を放棄し、媒体(絵具等)の実在感に徹頭徹尾依存する抽象絵画がその最終的な段階に至ってなおも捨てきれないこの一種の原理にたいする、ほとんど冒険的と言ってもいい、独自の考察がある―少なくとも私にはそのように思われるのだ。


事物の「かたち」にかんする用語を整理すれば、凹凸とか歪みの実態に即した見方は shape (形状)、基本的な図形に還元するのは form (フォルム)、背景や周囲との関係で眺めた figure (形象)ということになるだろう。フォルムだけが外来語のようになっているのは、イメージなどと同じく、もともと日本語には無い(だから私たちを歪みを美としてとらえることができる)概念だからである。


尾形純の絵画の最大の特徴は、地と図の関係に安住すべき形象の、それを無視した、たとえば周縁から不意に画面つまり聖域に入り込んでくる不穏な立ち居振る舞いにある。ここで心霊術につきもののエクトプラズムを連想するのはそれほど見当違いとは言えない。モノクロームの虚空を定めがたき形象が浮遊する。とりわけそれが周縁を徘徊するとき、少なくとも西欧的な文脈においては、画面中央は一気に余白の「危機」に曝されるであろうが、本質的に融通無碍の東洋的な感性にとってはそんなことはたいした問題ではない。むしろ、危機が危機のままに宙吊りになっていることに快感すら覚えるだろう。これは見方を変えれば、この時点もしくは瞬間で、「地と図」の関係は視覚的には消滅するものの、概念としては存続するということだ。


モーリス・ルイスの横長の画面の両端にわずかに色を配することで、輝ける真空を現出せしめた、あのどこか不安に満ちた決断を、ここでふと思うのはおそらく私だけではあるまい。そこで画面が尽きてしまう、ぎりぎりのところでまた色面を広げていこうとするクリフォード・スティルの傍若無人ぶりも、むろん風土の違いはあるが、ここではむしろ自然な身振りのように思われる。要するに、尾形純もまた絵画の冒険者なのだ。

本江 邦夫(多摩美術大学教授)
Kunio Motoe (Professor of Tama Art University)
深い余韻を残す霊妙な世界~尾形純作品展に寄せて

21世紀に入った今でも、実在の対象を美的に描くという伝統的な描法が消えてなくなったわけではない。むしろ日常の生活世界に目をやれば、なおそうした規範に則った絵画に接する機会のほうが断然多いだろう。生活世界の装飾とは、そして、そのためにある絵画とは、何よりも人々の内面をかき乱すことのない安心感を求められるものだからである。にもかかわらず、芸術表現としての絵画においては、もはや過去の美的規範を墨守しなければならない理由はどこにもない。ドイツの文学者ハンス・ヘニー・ヤーンが慨嘆したように、文明化の矛盾や世界大戦の不条理な悲劇をくぐり抜けた目と精神は、どんなに優美に見える対象も、「実体は虚無のような黒」であり、「引力に穿たれた孔、姿なき存在」であるとしか感受し得なくなったのだから。かくして絵画は、平面性と正面性という昔ながらの構造を受け継ぎつつも、現実世界を映す鏡ではなくなっていく。


このように現実の何ものも写さず、現実の何ものにも拘泥しない絵画とは、言い換えれば、みずからが精神を宿した存在もしくは世界となった絵画であるとも言い換えられよう。尾形純が一貫して描いてきたのは、まさにそのような絵画である。ぬばたまの深い闇を思わせる黒、反対に午後ののどけき光のような黄、うっそうたる自然に包み込まれた感覚を催させるグリーンといったさまざまの単一の色彩が広がった空間と、偶然ついた染みやしたたった水滴の跡とも、揺らめく炎とも、水中を浮遊する微生物とも、はたまた身をよじった人体ともつかないそこに出没するさまざまの名指しがたいイメージ。尾形の画面を成り立たせているのは、そのたった二つの要素だけなのだ。いうまでもなく静まり返って微動だにしない空間は<地>をなし、何かの形も結ぶことなく、ひたすら溶け流れているようなイメージは図をなす。


しかし、それを眺めていると、やがて見る者は、地と図でシンプルに設計された画面の奥底からじわじわと染み出してくる、深い余韻に満ちた気配を感じてやまないだろう。この個展に付された聞き慣れない響きを持つタイトル「和温の霊(くし)び」とは、こちらが勝手に解釈すれば、和は調和の和、温は温故知新の温、霊(くし)びとは神妙かつ不思議なことだから、地と図の調和的探究によって導かれた霊妙な世界というような意味となろうか。もちろん和を和風の和、温を温帯の温と解しても、尾形絵画の特質を表していることにさしたる変わりはあるまい。西洋画の脂ぎった物質感や厳格極まる構築性とは異質な、夢とも現(うつつ)ともつかない東洋画の深遠さにも通じていることに。それはたとえば、「静かなる暁ごとに見渡せばまだ深き夜の夢ぞ悲しき」(式子内親王)という古歌の美意識さえ思い出させる。

三田 晴夫(さんだ・はるお)(美術ジャーナリスト)
Haruo Sanda (Art Jounalist)
内在する輝き、広がるイメージと知覚経験

尾形純の最新作が放射する、柔らかい感性から生まれる色彩の輝きを堪能する。視線は平面に吸い込まれ、拡大し開放感と浮遊感を体験する。視線は何度も往還し、強烈で濃密な揺らぎと生気を得る。尾形の感性の志向性は、平面の深層に内在する色彩の輝きにある。深く学んだ古典技法に裏打ちされた色彩世界は、表層と中層から同時に浮かび上がる。色彩のイメージが自発性を一層強めてきた。表現の鮮度を保ち続ける確かな手わざが、増殖するイメージを生成し、空間を無限に押し広げてゆく。少しずつ明確になりはじめた浮遊する形象は、無類の生動感を与え、観る者の神経の弦をぐいぐいと引き締めてゆく。尾形純は、今回の個展で進展し、深化した。絵画の吸引力は確実に増し、重層的な色彩のイメージを、決定的な相へと昇華させた。それは日常的な視覚の記憶を超常的な知覚経験へと発展させた。

赤津 侃(美術評論家)
Tadashi Akatsu (Art Critic)